ドナルド・キーン

義満は、明国皇帝から賜った「日本国王」という呼称を容認して用いた。明国から与えられた称号をそのまま受け入れたということは、すなわち日本の将軍である義満が明国皇帝の臣下に過ぎないということを意味した。これが原因で義満は、日本の皇室の神格を重んじる者たちの憎しみを買うことになった。皇室の尊厳を踏みにじった一将軍を、彼らは断じて許すことができなかった。 義満に対する憎悪は、明治維新直前の数年間に特に強まった。文久三年(一八六三)二月、神道の国学者平田篤胤を信奉する二十人ほどの男が等持院に押し入り、最初の三人の足利将軍、すなわち尊氏、義詮、義満の木像の首を斬り落とした。木像の首は、賀茂の河原に晒された。「志士」によって斬首された「国賊」の首を晒すことは幕末の慣いで、これはそれに従ったものだった。それぞれの首には位牌がぶらさげられ、そばには悪党としての罪状を列挙した制札が立てられていた。義満が自ら進んで「日本国王」の肩書を受け入れたことは、おそらく、中でも最悪の罪と見なされたに違いない。